心の整え方

苦しみの量を人と比べることなんて出来ますか?

同じ悩みを持っている人なんていないんですね…

あるクライエントさんがしみじみとした様子でおっしゃいました。

これを聞いて、わたしは、ふとトルストイの言葉を思い出しました。

幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。

日々心理の仕事をしていると、本当にこのように感じます。
本当に一人ひとり、その苦しみの内容も量も質も長さも、全てにおいて違っているんです。

苦しみの感情だけではなくて、喜びも怒りも悲しみも。
あなたの感情は、誰とも違う、あなただけのものなんです。

なぜ、こんなことを言い出したのかというと。
最近では、世の中の雰囲気のなかに、「感情の強制」のようなものがあるのでは?という気がしているんです。

自分だけの感情を持つ自由を奪われているというか。

「感動を」とか「感謝を」とか「痛み分け」とか。
もちろん、他の人と協調して生きることは、人間として大切なことで、そのことを否定しているのではありません。

けれども、一人ひとり自分のなかに湧いてくる感情を素直に受け止める、味わうといった自由が制限されていて、さらに、他の大多数の人と同じ感情を持たないのはおかしい、みたいな雰囲気があって、そのことで生き辛さを感じている人も多いような気がするんです。

それに、「好き」と「嫌い」の間で揺れ動く気持ちとか、「好きだけど嫌い」みたいな、矛盾した感情だってあるはずなのに、そういう複雑な気持ちを認めてもらえない場合もあるように思われます。
人間の感情ってそうそう単純なものではないと思うんですが。

そんな日々の臨床からわたしが感じていることを、ここで少しまとめてみたいと思います。

心の在り方はみんな違うのに

心理学のなかには、人間に共通する心の動きを研究する分野があります。
ストレス状態や不安感など、誰にでもある程度共通する心理傾向は確かにあります。
そのため各種心理テスト、ストレスチェックや、〇〇診断リストなどが存在しているのです。

こうした一定の基準があることによって、わたし達一人ひとりの、独自の傾向というものが見えやすくなります。
こうした心理テストというのは、こういう「自分らしさ」を理解するための道具でもあるんです。

最近では、ストレスチェックとか、HPS診断とか、アダルトチルドレンとか、誰でも気軽に診断できるさまざまなツールが公開されていて、その基準に当てはまるかどうか?
確認される方も多いかと思います。

チェックリストに当てはまると、「私は〇〇だったからなんだ!」とご自分の生き辛さの理由が分かった気がして楽になるという方もいらっしゃるかと思います。

一方で「私は〇〇だから、もう治らないんだ」と、思い込んで絶望した気持ちになったり、当てはまらない場合には「一体私は何なんだろう?」と、より不安になる。

そんなふうにカテゴリー分けが独り歩きしているようにも感じられます。

そういう基準に当てはまったとしても、当てはまらなくても、一人ひとりが抱えている苦しみは千差万別。
リストに当てはまったからといって、必ずしも生き辛さや苦しみが無くなることはありません。

たとえチェックリスト上では、低レベルだったとしても、あなたの苦しみの量が高レベルの人より少ないかといえば、決してそんなことはないと思います。

昨今の世の中では、まるで苦しみの量さえも、他の人と比べてしまって、
「こんなことで苦しむ自分はダメだ」
と自分を責めてしまったり。
「あの人の方がもっと苦しんでるんだから、自分だって我慢しなくては」
と我慢比べをしているかのようだったり。
「このくらいは何でもないから、他の人だってきっと平気なはず」
と他の人の気持ちを勝手に判断してしまったり。

「〇〇傾向があるから△△という感情を持つはず、当然持つべきだ」みたいに、自分の心のなかで、ある感情が湧いているという、実際に起こっている事柄に向き合わずに、チェックリストの基準だけで自分のことを判断してしまう方もいらっしゃるようです。

逆に、自戒も含めてですが、わたし達カウンセラーのなかにも、〇〇傾向ということに気を取られて、実際のクライエントさんが「何をどのように感じているのか?」見落としてしまう傾向もあります。

こんな考え方によって、ご自分自身、そして他の人を追い詰めてしまう傾向があるような気がして仕方がないんです。

本来人間の苦しみ、全ての感情は、身長や体重のように、測定できるものではないはずです。

一人ひとり感じ方が違う理由

話がとりとめもない方向に行ってしまいましたが…

一人ひとり感情、感じ方が違うということについて、ザックリとですが、ここでお伝えしたいと思います。

普通に考えると、感情というものは心のなかで、何か勝手に湧いてくるように、感じられるかもしれませんね。

わたし達は、外側から入ってきたもの(刺激、情報)に反応すると、自分の内側に何か湧いてくるものを感じ取ります。

実はその時、その、自分のなかで湧いてきた「何か」について、わたし達は「どういう感情として扱うのか?」「どういう名前を付けるのか?」を自分なりに判断して決めているのです。
その判断基準は、あなた自身の過去の経験です。

ただ、自分で決めていると言っても、あなたがはっきり意識しないうちに、無意識に近いレベルで、行われているので、自分で決めているという自覚を持たないだけなのです。

例えば、あなたが電車に乗っている時、隣にいた人が、急にあなたにぶつかってきたとします。
その時、あなたはどう感じるでしょうか?
(ぶつかった瞬間に、「痛い!」と感じるのは、単に反射的な反応なので、ちょっと脇に置いておきます。)

あなたは、
「何なのこの人!失礼じゃない!!」と怒ってもいいですし、
「何で私はこんな目に遭うの?」と悲しむことも出来ます。
「この人またぶつかってくるかな?大丈夫かな?」と恐怖を感じるかもしれません。

隣の人がぶつかってきた、という全く同じ一つの状況なんですが、こんなに様々な感情が生まれる可能性があるのです。

そして、判断の基準となるものは、過去の経験ですから、その人によって千差万別なんです。あなたと全く同じ過去の経験をした人はいませんよね。

なので全く同じような状況でも、人によって、過去の経験が違うので、ある人は「怖い」と思い、他の人は「悲しい」と思うように、湧いてくる感情が、人それぞれ違うのです。

誰にでも自分だけの苦しみがある

同じ地震や同じ事故を経験した人であっても、人それぞれ感じ方、捉え方が違い、苦しみの質が違い、出来事から受ける影響も全く違うんです。
そのため、災害支援の難しさがここにあります。

また、同一人物からハラスメント被害を受けても、人によって受け止め方が違い、ある人は軽く受け流し、またある人は深刻な傷を追ってしまうことがあります。
ハラスメントの問題の解決が難しい理由のひとつです。

他の人と同じ立場で、他の人と同じ出来事を経験したとしても、他の人と同じ感情を持つことは出来ませんし、そうする必要もありません。

他の人が悲しんでいるからといって、悲しむ必要もないですし、他の人が悲しまないからといって、悲しんではいけない理由もありません。

人間の感情とか、心の在り方というのは、そのくらい、自由なものだと思うんです。

そして、究極のところ、わたし達は、他の人の感情や痛みそのものを共有することは決して出来ないんです。

同じ頭痛を感じることは出来ない

例えば、簡単なところで、頭痛ひとつとってみても。
今あなたが感じている頭痛は、今のあなただけのもの。
この瞬間、あなたが感じている、その痛みは、他の人と共有することはできません。

だってそうですよね。
他の人が、あなたの代わって、あなたの頭痛を感じることはできないのですから。

わたし達は別々の身体を持つ、別々の存在。
あなたにも、わたしにも、あなたにしかない、わたしにしかない、あなたそのもの、わたしそのものがあります。

痛みとか、感情とか、あなたの内部で生じてくるものは、あなたの存在の源が生み出している、あなただけの所有物。
他の誰も感じることができないもの、あなたしか感じることができないものなんです。

それでは結局、痛みを他の人と共有することは出来ないし、理解し合うことも出来ないように思われるかもしれませんが、決してそうではないとわたしは思います。

経験した人でないと分からない?

報道番組などで、大きな自然災害や、大事件、大事故に遭遇してしまった方のインタビューを見ていると、「結局、体験した人ではないと分からないから」という言葉を聞くことがあります。

ある意味、確かにそうですよね。
経験したことがある人にしか分からない実感というものが確かにあります。

日常生活でも、子供がいる人は、「子育てを経験してないのに分かるわけがない」と言い、仕事をしている人は、「仕事をしていないのに分かるわけがない」と言います。

「どうせ体験した人ではないと分からないから 」

臨床心理の仕事をするようになって、そこそこ年数が経ちましたが、わたしが初心者だった頃、クライアントさんに言われて、困ることのひとつが実はこの言葉でした。
クライアントさんを「理解してあげられない」と、とても悩みました。

でも、今は、この言葉の裏にある、クライアントさんのお気持ちを察することが、だんだんと出来るようになってきました。

遭遇した出来事が大きければ大きいほど、また特殊なケースであればあるほど、その出来事を経験していない人と隔たりがあるように感じられるのでしょう。
それを経験していない人に理解してもらうのは不可能だ、という気持ちになるのも自然なことだと思います。

同じ出来事を体験したのに…

それでは同じ出来事を経験した人が同士であればいいのでしょうか?
家族や友人が同じ出来事を体験していて、いろいろと話すことができれば大丈夫なんでしょうか?

同じ出来事を経験したという共有の体験があれば、その実感や、空気感、雰囲気のような、言葉で伝えるのが難しいことを共有しやすいし、同じような気持ちになることも多いものです。

ところが、同じ物事に遭遇しても、誰もが、全く同じような体験をするとは限らないというのは、上記でお伝えした通りです。

家族であっても、皆がそれぞれ、今までの人生経験をベースにして、物事を判断し、自分なりに評価したうえで、それぞれのライフステージのなかで体験するわけです。

ですから、家族の間でも体験するものは当然違ってくるのです。
同じ出来事に遭遇した家族間でも、必ずしも分かり合えるわけではない。
だったら、もう誰にも分かってもらえないのかもしれない・・・

今では「体験した人ではないと分からない」という言葉に潜む、こんな深い孤独感に気付くようになりました。

話しても孤独が深まるだけ

「体験した人ではないと分からない」とつぶやく方は、過去には家族や友人を含めて誰かに話をしたり、相談に行ったりした経験をされていることがあることがほとんどです。

ところが、相談した相手から、ご自分の気持ちが通じたと思う前に、さっさとアドバイスを押し付けられてしまったり、「大丈夫」と根拠のない保証をされてしまったり、という経験を多少なりともされているようです。

特に、周りの人は苦しみからどんどん立ち直っているのに、ご自分はまだ気持ちが混乱している。
自分でもいい加減どうにかしなくては、とか、いつまで落ち込んでいるんだ、とか、自分を責める気持ちも出てきているのに、どうにも立ち直れないでいる…

そんな自分だけが取り残されてしまったような、もう誰とも痛みを分かち合えないような、そんな思いがあるのでは?と。

同じ症状を抱えているのに

例えば、パニック障害などの方も、こうした深い孤独を感じていらっしゃる方が多いように思います。

発作が起きてしまうと、「死ぬかもしれない」という恐怖、不安に襲われます。
ところが、医学的に診ると、パニック発作で死ぬことはないので、医療場面ではあまり重要視されないことが多いものです。

ただ発作が治まるまで、大変な恐怖や苦しみを抱えながら待つしかない。
いつ何時発作が起きるか分からない不安。

なかなか他の人には理解してもらえないし、かえって驚かせてしまうのも困る。
同じパニック障害がありながら、普通に働けている人もいるのに、自分はできない。とか。

死ぬかもしれない、と考えたり、実際に死ぬのは怖いですよね。
だからこそ、日々、わたし達は、日常のいろんな諸々に忙しくしていて、「いつか死ぬ」という事実から目を背け、考えないようにしているわけなんです。

それなのに、日常のなかで、「死ぬかも」という恐怖を、パニック発作によって度々味わされるというのは、本当に辛いことだと思います。

自分だけの痛みを持つ者同士として

最初に戻りますが、悩みや苦しみに大小はありません。
外から見て何でもないように見えたとしても、人それぞれに、深刻なんです。

一人ひとりが感じている、苦しみや痛みそのものは共有できません。

誰でも、他の人と共有できない「何か」を持っているという孤独を抱えているんです。

けれど、まさにそこに、みんな、自分にしか分からない苦しみ、痛みを感じる存在同士として、分かち合えることも、必ずあると思っています。

痛みそのものは無理でも、痛みを持つということ、自分だけにしか分からない悩みを抱えているということ自体に。

それぞれが「自分を生きる」という目的

わたし達はみんな、誰とも違う自分だけの心の在り方、「自分というもの」を探索しながら生きています。

悩みや苦しみというのは、ネガティブに捉えられることが多いものですが、悩みが生まれるということには、必ず何か意味があるはずです。

どんな悩みにも、どんな問題にも、例えばこのコロナ禍にも、計り知れない意味があって、その、自分だけの意味を探っていくものなのかもしれません

誰かと比べてどうの、ではなくて、自分にしか覗けない自分の内面を見ていくこと。

どんな苦しみの経験も、後にも先にもない、その時の自分にしか体験できないことです。
そのこと自体に、大きな意味があるように思えてなりません。

ABOUT ME
Chisako
臨床心理士・公認心理師・ヨガインストラクター。元社労士。 こころとからだのことで悩んでいるあなたに、わたしの今までの学びがお役に立つと嬉しいです。 根が不器用な自分を認めて、ただシンプルに生きるのが信条。
カウンセリングがうまくいかなかったあなたに。

あなたはご存知でしょうか?

不安、うつ、トラウマ、過緊張など、こころの症状を、身体を整えながら、身体の側から改善していくことができるということを。

「心の問題には対話によるカウンセリング」というのが一般的な常識ですし、
わたし自身、臨床心理士として、カウンセリングの効果も確かにあると認めています。

けれども、カウンセリングでは、うまく話すことができないと、なかなか先に進めない、ということも事実です。

いくら相手がカウンセラーだったとしても、そんなにすぐに打ち解けて、自分のありのままを話すことなんて難しいですよね。
信頼できるかどうかも分からないし、不安ですよね?

カウンセラーと信頼できる関係を築くまでには、本当に長い時間がかかります。
そのため、カウンセリングで変化を感じる前に、続けられなくなってしまう場合が多いのです。

「カウンセリングがうまくいかない」と困っている方がきっとたくさんいらっしゃるはず。本当はそういう方こそ、心のケアが必要なのに。

そこで、「無理に誰かに話さなくても、心の問題を解決していける方法があればいいな」と、わたしはずっと探していました。

そこで、たどり着いたのが、身体を整え、身体の感覚に向き合うことで、心を整え、心の問題を解決していこうとする方法でのカウンセリングだったのです。

これから自分らしく生きるために、こころ、からだをケアしたい。
でも、カウンセリングでは難しい。

そんなあなたにこそ、かぜのねのカウンセリングをお勧めします。
ぜひ、一度試してみてくださいませんか。

カウンセリングの詳細はこちらから