癒しというもの

母とは違う「自分」を生きる

前回、前々回のブログでも、わたし自身の体験を踏まえ、「母が重い」問題を取り上げました。

そこでは、
母と一体化してしまった自分がいるということ。
そして、「母≠わたし」であることを体感していくことが、母娘関係の本質的な解決につながるのではないか。
そんなことをお伝えしてきました。

この記事では、心身の健康、および「母≠わたし」、つまり自分自身を取り戻すプロセスについて、わたし自身が実際に経験したことを具体的にまとめていきます。

ただ、予めお断りしておきますが、ここでお伝えするのは、あくまでも、わたし自身が実際に体験したことから分かってきたことです。
そのため、一般的な心理学の理論とは異なる点が多々あるかと思います。
その点につきましては、ご理解いただいたうえで参考にしていただけますと幸いです。

わたしの不調の直接の原因

今ここで改めて不調の直接の原因となっていたものは何だったのか?、と振り返ってみると、以下の3つが考えられます。

  1. 自分の感情を閉じ込めていたストレス
    (特に、強い怒り・失望・不信感・無力感といった感情)
  2. 母の気持ちと自分の気持ちの間の葛藤
    (母に対する不信感と、母と一体でありたいという矛盾した2つの気持ち)
  3. 自分の心と身体の間のギャップ
    (母と一体化した部分の心と、純粋にわたしのものである身体との葛藤)

こんなことが積み重なって、わたしの状況をややこしくし、いつしか強いストレスとなって、心身の不調を引き起こす要因になっていったと考えられます。

①については、母に対する怒り、そして、自分自身への怒りの感情を、認識できないように心の底に閉じ込めていたことを前回のブログでお伝えしましたので、ここでは割愛します。

ここでは、②について、自分では知らぬ間に、母の影響のもとに人生の選択をしていたことに気付き、改めて自分の人生を生き直す、ということを中心にお伝えしていきます。

そして、そんななかで、③のような、自分の心と身体の間のギャップをどういうふうに埋めていったのか、についても、適宜記していこうと思います。

まずは、わたしのこれまでの経緯からお話させてください。

「本当にやりたいことって何だったんだろう?」

わたしは、高校時代に進路を決めるにあたって、カウンセラーになりたいと考えていたにもかかわらず、父の反対で心理学科に進学できませんでした。
そこで、これといった目標もないまま大学に通い、卒業後は、事務系の正社員として働くしかないものだ、と漠然と考えていました。

けれども、就職活動に失敗してしまい、新卒派遣という奇妙な働き方で社会に出ることになってしまいました。
なかなか自分のなかで、組織の一員として役割を果たす、というイメージが持てないまま、組織に所属することに何故か恐怖を感じながら。

30歳を目前にしても、わたしは、なかなか「やりたいこと」が分からないまま、それでも常に何かを求める気持ちがあって、職場を点々とすることを繰り返していました。

体調や気分の波に翻弄され、アルバイトさえ難しい状況の時もあり、資格の勉強をしたり、就職恐怖症?に怯えながら、事務系の正社員として働くことを目標にしてきました。

そして、30歳目前でやっと目標を達成。
ボーナスもお給料も、収入面では申し分のない職場でした。

やっと落ち着いて「真っ当な」人生を送れる!

そう思ったのも束の間…

ようやく落ち着いていた体調が悪化してしまいました。
またもや、うつ状態やら、ちょっと風邪を引けば高熱が出る。
ひどい便秘をするかと思えば、急に下痢をしたり。
次から次へと身体に悪いところが出てくるといった症状に悩まされることになったのです。

この時、自分が目標としていたことが、本当に自分が心から望んでいたものだったのか?
自分の気持ちが全く分からなくなってしまって、しばらく混乱していました。

ヨガを学びたいのに…

その時わたしは、体調を整えるためもあり、より本格的にヨガを学ぶことにしました。
ヨガだけは、「純粋に自分がやりたい」と思えたのです。

ところがヨガに関しても、同じ状況が。
母は最初、わたしがヨガを学ぶことに対して、良い顔をしませんでした。

ですので、わたしのなかでは、ヨガを学ぶことに対しても、かなりの間、葛藤があったんです。

「自分を守る」ということ

ヨガと並行して、わたしは心理カウンセリングも受けていました。
カウンセリングを受けることは、母にも、他の家族にも内緒にしていました。

そんなある日、両親の間でイザコザがあり、わたしも巻き込まれてしまい、カウンセリングを続けられるか不透明な状況に陥ってしまいました。

その時カウンセラーから言われた言葉が、わたしのなかで、大きな支えになったのです。

ちゃんと自分を守りなさい。自分にとって必要なことをするためなのだから。

その言葉を聞いて、ハッとしたことを鮮明に記憶しています。

そうか。自分で自分を守らなくてはいけないんだ!

わたしのなかで声がしました。

それまでのわたしだったら、家族のゴタゴタを優先して、カウンセリングを中断したかもしれません。
でも、この時からわたしは、自分のカウンセリングを優先することを決めたのです。

そして、カウンセリングと同じように大切なものだったヨガも、たとえ、練習する時間は短くなったとしても、絶対に止めないようにしよう。
葛藤がゼロになったわけではないけれど、心から強くそう思えたんです。

母の一部である自分と、純粋な自分との間の葛藤

前回前々回のブログでお伝えしたように、わたしの心のなかには、「母=わたし」、まるで母の一部のように機能してしまう領域があります。

母の一部になってしまっている自分。
そして、純粋な自分としての自分。

その2つが常に同じ方向を向いてくれていれば楽なのでしょうが、決してそういうわけにはいきません。
本来は、母親とはいえ、自分とは別個の人間ですからね。

そもそも完全に一体化するなんて無理なこと。
もし、完全に一体であったのならば、葛藤も矛盾もないから、苦しむこともないんですよね。

でも、その一方で、わたしだって、娘として母の幸せを望む気持ちもやっぱりあります。
なので、母の幸せは、ある意味、自分の幸せでもあるんです。

不思議な罪悪感

「自分らしく生きること=母の望む方向」
だと本当に楽かと思いますが。
わたしの場合、「自分らしく生きること=母の思いに反すること」でした。

例えば、純粋な自分としては、ヨガをやりたい。
けれども、母はそれを望んでいないから、母の一部としての自分も、当然それを望まない。

自分としては、ヨガをしたいけれども、それは母を失望させることになる。
したがって、母の一部である自分自身の一部を失望させることになる。

こんなふうに、自分のなかで大変な矛盾が生じていて、わたしはずっと、自分のなかが分断されているような感じがしていました。

それに加えて、「母が望まないことをするのはいけないこと」のような意識が、わたしのなかのどこかにあって、ヨガをやるとに、罪悪感を感じていました。

けれども、確かに母が嫌がるかもしれないけれども、ヨガを学ぶことそのものが本当に悪いことなんだろうか?
わたしにとっては、「これだけは」という強いを持てるヨガを、常識的な範囲で練習することは、そんなに責められるものなのか?

やっと自分でそんなふうに考えることができるようになった時、ヨガをやることへの罪悪感が少しずつ消えていきました。

わたし自身を取り戻すプロセス

わたし自身は、決して「普通の」会社員生活を望んでいるのではない。

このようにハッキリと自覚できるようになったのも、紆余曲折を経て、カウンセラーになることを決意した後のことです。

カウンセラーになることを決め、純粋に自分の意思で、自分の責任で動き始めてからも、しばらくの間は、どこか、自分が間違ったことをしているのではないか。
そんなふうに感じることも多々ありました。

わたし自身、本当にやりたいと思い、そして社会的にも意義があるであろう仕事をしようとしているだけなのに。

カウンセラーの学びのため、正社員の職を辞めてから、体調は徐々に戻ってきましたが、気分の波は相変わらず、わたしを苦しめ続けていました。

やはりここでも、多分母が望むであろうこと。
そして、わたし自身が望んでいること。

この2つが常に、わたしのなかで葛藤していて、「不安定な感じ」を生じさせていた。
そのために、何をしても「これでいい」と自分を肯定することができず、そのストレスもまた、不調を引き起こしていたのでしょう。

母の身体は母のもの。わたしの身体はわたしのもの。

それに加えて、いつもどことなく不安定な感じがしていたことも、不調をさらに加速させていたのでした。

当たり前のことですが、母とわたしは、物理的には別々の肉体として存在しているのです。

母の身体は母のもの。
わたしの身体はわたしだけのもの。

それは、紛れもない事実です。

ところが、本来は、心全体わたし自身のものなのに、その心の一部が母の一部として動いてしまう。
そのため、身体全体わたし自身のものである身体と、心の間にギャップが生じてしまいます。

多かれ少なかれ、誰しも身体と心の間にはギャップがあるのが自然です。
(わたし達人間は、成長に伴って、身体の生理的な要求を、社会的場面に沿うように、ちゃんと抑えられるようになっていきますので。)

ただ、その心と身体のギャップが、その人の限界を超えて大きくなってくると、それは生き辛さにつながります。

母と一体化した心の部分が無かったとしても、一般的な社会生活を送る上では、それなりに、身体と心にギャップが生じるのが普通です。

わたしの場合、母と一体化した心の部分があったのですから、そのギャップは相当大きかったわけです。
それに、かつてのわたしは、自分で自分を守るだけの強さもなかったし、本当に出来ないことが多いし。

だから、いつも身体と心がバラバラで、「わたし」として統合された感じを持つことができなかったし、どこかバランスが取れない不安定な感じがしていたのも無理はない。

こんなふうに考えることができるようになりました。
つまり、ようやく、わたしは自分の不調をちゃんと理由があったものだった、というふうに捉えることができるようになったのです。

自分の限界を認めるということ

さらにさらに、わたしはいろいろと考え続けました。

わたしのなかで、なぜか、「母を満足させなくてはいけない」とか、「母の望むようにしなくてはいけない」みたいな思い込みがずっとあって、自分でもハッキリと意識しないまま、いつしかそういう行動をしていたこと。

「母を満足させなくては」という気持ちの裏には、「母=わたし」となっているわたし自身の心を満足させるという意味もあったのかもしれません。

母を満足させるのは無理

けれども、そもそも母の望みを全て叶えるのは無理なのだ、ということに、ある時気付いたのです。
「母=わたし」となっている自分の心の望みだったとしても、誰にとっても、何もかも思い通りになるなんて、冷静に考えると、ありえないことなんですよね。

わたしは神様ではないし、何をやっても不器用です。

きっと母は失望するに違いないけれど、わたしには、母を満足させることはできない。
それで母娘断絶ならば、それも仕方ない。
とにかく、わたしには無理なんだから。

そんな思いが自然と浮かんできました。
そして同時に、肩の力がふっと抜けたというか、そんな感じがしました。

わたしにとって、それは自分の限界を認識することでもあったのです。
「これ以上は無理」という一線があるということを。

「ダメ人間」でいること

そして、やがて小さな芽のような気持ちが湧いてきました。

小さい頃は、「母に評価される=わたしにとって利益」だった。
けれども、今はどうなんだろう?
そんな利益がなくなっても、今は自分で何とかできるはず。

母から評価されないと、自分には価値がないかのように感じてしまう。
でも、母からの評価によって自分の評価を決めているということは、母にやっぱり依存しているということ。

母からみてダメな人間であっても、いいんじゃないだろうか。
それが自分だから。
母がわたしを認めても、認めなくても、ただの自分であることを、自分に許そう。

ついに、わたしはこんなふうな結論に達しました。

「ただの自分」を生きていく

こんなふうに考えられるようになってから、身体にエネルギーを感じられるようになり、気分の波も、アップダウンの差が小さくなってきました。

カウンセリングを通して、母との関係を含め、自分のことを振り返って考え続けたことが良かったのはもちろん、ヨガの学びも、同じくらい力を与えてくれました。

ヨガでは、身体の各所の関節、骨、筋肉などの動きを微細に観察しながら、身体を動かしていきますが、そういう「紛れもない自分の身体」として感じられる感覚を養えたことが、大きなプラスになったのです。

ヨガで身体を動かした時に、身体で感じる感覚だけは、それが痛みや凝り、緊張感など、嫌なものであったとしても、本当に純粋な、自分だけの感覚なんです。

そして、今自分が行っている呼吸は純粋に自分のもの。
母が呼吸しているのではない。

当たり前といえば、当たり前のことですが、ちゃんとそういうふうに実感出来ているだろうか?

こうして身体の感覚を確かめつつ、ヨガを学んでいきました。

この、身体の感覚が生まれてくる源というのが、純粋なわたし自身。

「母=わたし」として母と一体化した自分ではありません。

わたし自身は、自分の身体の感覚を、このように改めて再認識することで、「母≠わたし」つまり、母とわたしはそれぞれ個別の存在だということが腑に落ちるように実感できていったのです。

そして、「心身一如」ですから、身体が別個のものだと深く認識することができるようになった結果、心も母とは別個のものであると、自然に認識することに結び付いていきました。

自分だけの役割

今のわたしは、母を満足させるより、自分が健康に生きることが大切だと考えています。
それだけが自分の役割だと思うんです。

この世のどんな生物や、細胞ひとつひとつでさえ、独立した存在で、それぞれに役割があります。

Chisako
Chisako
だから、わたしとして生きるしかない。

母にとっては不満でしょうし、わたし自身も、母の気持ちに反することについては、残念に思う部分も残っていて、今でもモヤモヤすることもあります。
けれども、やっぱり不器用なダメ人間かもしれないけれど、わたしでいるしかない。
今はいつも自然にそんなふうに思えるんです。

母娘関係の改善のために

前々回のブログあたりから、継続して母娘関係について取り上げてきました。

  • 「母=私」のような、母の一部になったみたいな自分の一部を、改めて自分のものとして認識し直すことが、本質的な解決につながるのではないか。
  • 単に頭で理解するだけではなく、「『母≠わたし』の状態を自分自身の内側に落とし込んでいくこと」が必要ではないか。
  • 具体的な手段のひとつとして、純粋な自分だけの感覚や感情が自分のなかで、どのように生じてくるのか、身体を通して自分の中で確かめていくことが挙げられる。

このようにお伝えしてきました。

わたし自身、今に辿り着くまでに、正直、長い時間がかかりました。

「母」という存在は、非常に近いけれども、やっぱり純粋な「私」ではない。
母の人生を生きるのは母だけ。
私の人生を生きるのは私だけ。
それぞれ母の代わりに、娘の代わりに、生きることはできない。

言葉でこのように表現してしまうと、当たり前過ぎて何なんだ?
という感じですが、半分無意識の、心の領域では必ずしもそうではないことが多いのです。

わたしに限らず、母娘関係に悩んでいる方は、決してお母さんと断絶することを望んでいるのではないはずです。

本当は良い関係を築きたいんです…

そう願っているからこそ、深く悩んでしまうのだと思います。

「母=私」のようにすべてを共有するのではなく、純粋な自分だけのものを守りながら、お互いに共有できるものはしていく。

共有できる範囲というのは、その時々の関係によって異なっていくのでしょうが、その場その場でちゃんとバランスを取りながら、お互いに無理をしないでいられる立ち位置に立つことができるように。

それに、共有できることと、できないことの境目が明確だからこそ、本当の意味で共感することができるのだと思います。
それこそが、母との関係において、わたし達が本当にあって欲しいと望んでいるものではないでしょうか。

母娘関係が完全に解決するということはあり得ないかもしれません。
けれども、近い関係だからこそ、お互いに変化する可能性もあるはずです。
自分が変わると、母に対する態度が変わり、やがては、母も変わっていくことがあります。

時間はかかるだけかかるもの

「時薬」と言われるように、ある程度の時間の経過もまた、わたしには必要だったのだと思います。

自分を見つめ直す過程で徐々に、自分のなかに閉じ込めていた怒りの感情は和らいできて、母を以前とは違った視点から見ることができるようになってきました。
すべての傷が癒えたわけではないけれど。

母という人を見つめ直す

母がわたしを利用した部分はあるものの、わたし自身、母から金銭的な支援を受けていたことも事実です。

母自身もまた、中学に入学する直前に母(わたしの祖母)を事故で亡くしています。

なので、母自身が子供として、思春期以降の母娘関係を経験する機会がないまま、母親になったのですから、娘との関係の築き方が分からなかったのも無理はないな、と思うようになりました。

親戚とか、身近に子育てのモデルとなる人もいなかったので、母自身手探りだったのでしょう。

父もまた、小学6年生の時に父親(つまり祖父)を病気で亡くしています。
父も子育てのお手本がないままでしたから、相当大変だったのだろうとも思います。

そして、自分への見方も変わっていく

そして、自分のことに関しても、よりいろいろな角度から自分自身を眺められるようになりました。

今にして思えば、わたしはそもそも事務職に向いていないのです。
同じ業務を的確に繰り返すというのが苦手で、すぐに飽きてしまうんですね。

もともと不器用なので、上手な言い回しもできないし。
組織のなかで、あちらを立て、こちらを立て、という調整役なんて神業としか思えないんですから。

それに、組織のやり方に自分を合わせることがどうしても出来ない。
他の人と同じようにやれないんです。

それなのに、なぜ事務職に固執したかというと、やっぱり母の影響があったんです。

両親は共働きで、母はずっと正社員として働いていて、経理のベテラン社員でした。
当然そういうふうな生き方をするべきだ、と、知らぬ間に植え付けられてしまって、それが「当たり前」だと思っていたのです。

それに、母だけでなく、父も、口先では「好きにしていい」といいながら、本音の部分で、「普通の社会人であること」を望んでいるのが分かっていましたから。

母にしてみれば、なぜ、わたしが「普通に」働けないのか、ずっと理解できなかったのではないかと思います。
母自身は、ごく「当たり前」にやっていて、それが最も真っ当な生き方であるはずなのに。
わたしには、母のような能力がなかっただけなんです。

母とは違うわたしにとっては、もっとわたしらしく生きる方法がある。
今なお、日々、その生き方を実践しています。

ABOUT ME
Chisako
臨床心理士・公認心理師・ヨガインストラクター。元社労士。 こころとからだのことで悩んでいるあなたに、わたしの今までの学びがお役に立つと嬉しいです。 根が不器用な自分を認めて、ただシンプルに生きるのが信条。
あなただけに合ったヨガを学んでみませんか?

あなたはご存知でしょうか?

本来のヨガには、身体と心の不調を癒していく効果があります。
欧米では、そんなヨガが医学的治療の一部として、疾患の予防、ストレスケア、メンタルヘルスの向上、リハビリなどにも役立てられています。

一般的に知られていないことですが、ポーズが出来ても、出来なくても、ヨガの効果とは全く関係ありません。

なぜなら、ご自の内面に集中して、意識してからだを動かすこと自体に、あなたを癒し、変えていく力があるのです。
身体を整えることで、脳や心がリラックスし、結果として心身のバランスを取戻していくことができます。

「ヨガをやってみたいと思っていたけど、まさか自分がヨガなんて?」と、
一般的なヨガ教室を敬遠されていたあなたにこそ、一度お勧めしたいのです。

完全マンツーマンレッスン。
あなたのペースで、あなただけに合った内容のヨガをゆっくりと体験してみませんか?

パーソナルヨガの詳細はこちらから