新型コロナウイルスに関連した報道のなかで、一般の方を対象にした街頭インタビューを目にすることがあります。
そこで多く聞かれるのが、「不安だ」という言葉。
そして、「(感染予防や自粛の)基準を国から示して欲しい。」という言葉です。
この2つがセットになっているように、わたしには感じられます。
残念ながら、こういう姿勢では、ずっと不安な気持ちに翻弄されながら生きることになってしまうのではないか、とわたしは思うのです。
身も蓋もない言い方になりますが、不安は消えることはありません。
なぜなら、未来は常に不確実ですから。
明日がどうなるか、究極のところ、誰にも予測出来ないものです。
地震が起きるかもしれません。
災害に巻き込まれるかもしれません。
思わぬ事故に遭ってしまうかもしれません。
それに、わたし達はいつか死にます。
明日の命も、言ってみれば、次の瞬間の命さえも、不確実なんです。
そして、死ぬということもまた、未知のことです。
だから、わたし達は本質的に不安なんです。
こういう、わたし達の存在にまつわる根本的な不安というものは、どんなに恵まれた状況にあっても、いつもいつも、付いて回ります。
けれども、その不安を受け入れながら、自分らしく生きていく道を、わたし達は、誰もが見つけることが出来ると思うんです。
この記事では、不安という気持ちに惑わされることなく、自分らしく生きていくことについて、今までわたしなりに経験し、自ら考え、実践してきたことをお伝えしていきます。
わたしのパニック発作体験から
不安という感情は、なかなか手強い相手です。
というのは、はっきりと意識できない場合が多いからです。
わたし達は、不安という感情を持つことを、無意識で避けていることがあります。
そのため厄介なことに、理由の分からない衝動が起こって思いも寄らないような行動をしてしまったり、いつも何かに追い立てられるような緊張感があったり、さらには身体の方に不調が出たり、という状況に陥ることも。
わたし自身もそういう経験をしてきました。
いつもと同じ普通の朝だったのに…
わたしはパニック障害の専門というわけではないのですが、何かご縁があるようで、こちらにはパニック発作の経験を持つ方が多くいらっしゃいます。
わたし自身「あれはパニック発作だったのか?」と思い当たる症状を経験したことがあります。
病院で診察を受けていないまま過ごしてしまったので、あくまでも、自分の感覚ですが。

今から20年以上前、1998年のある夏の朝、通勤途中のことでした。
いつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じ電車に乗っていました。
満員電車でしたが、夏休みシーズンのせいか、普段よりも少し空いている印象でした。
途中で目の前の座席が空き、座ることができたので、「ラッキー」と思いながら、ぼんやりしていました。
電車が都心に近づくにつれて、徐々に人は増え、座っているわたしと、座席の前に立っている人達の間隔がだんだん狭くなってきました。
すると突然、何かおかしくなったんです。
呼吸ができない、というか、息が詰まってくるような。
胸の辺りが締め付けられるような、圧迫感。
ドキドキしてきて、これ以上この場にいられない感じがして。
何がなんだか、分からないまま、もう電車に乗っていられなくなって、飛び出すように途中下車するしかありませんでした。
駅のベンチに座り込んで、ただじっとしているしかなくて。
ようやく何とか呼吸が落ち着いて、やっと身体を動かせそうな感覚が戻って来るまで、しばらく時間が必要でした。
とりあえず、各駅停車の空いている電車を選んで、その日はどうにか出勤することは出来ました。
電車に乗るのが不安に
パニック症状というのは、本当に何の前触れもなく、突然やって来るものです。
しばらくの間、「あれは何だったのだろう?」と、不安になったり、電車に乗るのが怖いような日々が続きました。
幸い、その後発作のようなことは起こらなかったのですが、なぜか、朝の通勤電車のなかでトイレに行きたくなって仕方がなくなるということが続きました。
夜は必ず水分を控えているのに、やっぱりトイレが近くて。
満員電車のなかで身動きが取れなくて、トイレに行けなかったらどうしよう、と不安で仕方がなくて。
途中でトイレに行けるように、早めの電車に乗ろうと思っているのに、なぜか、何をするのにも時間がかかって、毎朝ギリギリの時間に家を出ることになってしまうのでした。
なので、電車を降りてトイレに行ったら間違いなく遅刻する、という切迫感にいつも悩まされていました。
とにかく毎日をやり過ごすだけの生活
当時、就職活動に失敗して正社員になれなかったわたしは、社員が続々と病気になったり、半年の間に、派遣社員の方が10人以上入れ替わってしまうような環境で働いていました。
しかも新卒派遣という奇妙な立場で、隣の席の14歳年上の女性社員に常に監視される毎日。
トイレのために席を外すだけでも、彼女はじっと睨んでいました。
でも、もともと人付き合いの苦手なわたしが、人に頼ることなく、自分なりに考えて、50社以上の会社を受けては不採用になった結果、ようやく決まった会社だったのです。
ただ、就職浪人として家にいるよりは、職場があるだけマシ。
そんな気持ちもありました。
とても辛いけど、そこにしか居場所がなくて、ひたすらに我慢して、日々やり過ごすことで精一杯。
他にも、風邪を引きやすかったり、急にお腹の調子が悪くなったり、いろいろ身体に不調が出始めていたのです。
ところが、わたしはずっと身体の不調に無関心でした。
甘い物を食べたり、気晴らしの買い物をしたり、休日にあちこち出歩いたりしながら。
それからも、いろいろあって、結局、わたしはその職場を去ることを決めました。
迷いながら、自分も責めながら、先が見えない状況のままでしたが、これ以上続けるのは無理だと判断するしかなかったんです。
退職して一時的に解放された気持ちにはなりましたが、それも長くは続かず、心身の不調はその後も続いていきました。
不調に悩みながら、グズグズ過ごすしかなかった日々
退職後しばらくの間、わたしはパソコン教室に通いながら、鬱々とした日々を送っていました。
次の仕事を探さなくてはいけないのに、それは分かりきったことなのに、どうしても、身体も心も動かなかったのです。
それどころか、また就職するということを考えるだけで、漠然とした恐怖を感じるほどでした。
そのため、求人募集を探して履歴書を送ってみるとか、就職に向けて具体的な行動をすることが出来ないまま、パソコン教室が終わると、今度は簿記のスクールへ。
何かをしないではいられない、けれども、就職活動という、一番しなくてはいけないことに取り組めない。
そんな状況のもと、いつも何となく体調が思わしくなかったのです。
スクールで1コマの講義を受けるだけで疲れてしまう。
勉強していてもすぐに肩が凝る。
睡眠時間は取っているのに、眠くて仕方がない。
誤魔化し誤魔化しながら、ズルズル過ごしていたところ、高齢の祖母が突然歩けなくなり、そのうえ母が病気になり、わたしは家事一切と家族の看病を担わざるを得なくなりました。
体調は悪化する一方。
やっと母が回復して職場に復帰するようになると、今度はわたし自身がベッドから出ることが出来なくなってしまったのでした。
不調から立ち直ったものの、道のりは遠く…
しかし、その経験をきっかけに、わたしは徐々に不調から立ち直ることが出来ました。
その時の詳細はこちらの記事に。
ただ、その後もすぐに体調万全になるということはなく、しばらく試行錯誤は続きました。
人間の体調とか気分というものは、なかなか一筋縄ではいかないものですね。
自分のなかにある「治ろうとする力」こそが大切だと、確かに実感したのでしたが、現実の生活で日々さまざまな出来事に遭遇すると、やっぱり気持ちが不安定になってしまうことが度々ありました。
体調も日常生活に支障がないくらいに回復しましたが、今ひとつスッキリしないな、と感じることも多かったです。

些細なことをきっかけに気持ちが不安定になると、自分の内側の力を信じるどころではなくなって、あれこれ考えては行動することを繰り返していました。
何となく、行動しなくては、と思って。
整体、マッサージ、サプリメント、食事療法とか、健康本を読み漁ったり。
これがだめなら、あれ、あれがダメならそれ。
まだダメなら他のものを。
当時のわたしは、まだまだ自分のなかの力を信じることが出来ずに、外の世界のどこかに、自分の傷を癒やしてくれる、不調を治してくれる何かがあると思い込んでいたんです。
そして、ひたすらその「何か」を探していました。
心身の不調の本当の原因
今ここで改めて振り返ってみると、わたしの不調がなかなか改善しなかった理由や、その不調の根本にあった問題が自分なりにいろいろと見えてくるのです。
わたしの不調がなかなか改善しなかったのは、自分が不調に悩んでいる状況の、根本的な原因を探ろうとしなかったからです。
不調の原因は、他ならない自分の中にあったのに、「なぜ不調なのか」立ち止まって考えてみることをしなかったんです。
より本質的なところから不調を癒すために、辛い状況のなかでも、やらなくてはいけない辛い作業があります。
それが、自分自身のなかにある感情と向き合っていくこと。
自分のなかにある感情を、自分でちゃんと認めて、自分なりに抱えていくことです。
自分の感情を自分で認めたくなかったから
就職活動がうまくいかなかったのは、強い恐怖があったからなんです。
再就職し、組織の一員として働くことに対して。
その組織とか、そこでの人間関係の渦みたいなものに呑み込まれて、身動きが取れなくなってしまのではないか、というような。
こんなふうに就職すること自体が怖くって仕方がないのですから、就職活動が進まないのも当たり前と言えば当たり前です。
いわば「就職恐怖症」だったのに、当時のわたしは、自分が「怖い」と感じていることを素直に認めることが出来ませんでした。
就職することが怖いなんて。
自分がおかしいに違いないし、ただでさえ、就職に失敗したダメ人間。
そんなことを言おうものなら、家族にバカにされるし、自分がみじめになるだけなのが分かっていましたから。
なので、「就職が怖い」ということに正面から向き合うことが出来ずに、それよりも「心身の不調の方を何とかしなくては」と、そのことにばかり意識を向けていたんです。

そして、それ以上に、わたしは不安だっだのです。
組織で働くことがこんなに怖いことだとすれば、この先、社会人としてやっていけるのだろうか。
会社に勤めるという生き方以外に選択肢が無いのに、わたしはどうやって生きていけばいいんだろう。
グルグル同じことを繰り返しているような。
いつまで、こんな状態に耐えられるのか。
これから先、どうすればいいのか。
恐怖という感情には、「就職への恐怖」とか、ある程度対象があることがほとんどです。
ところが不安という感情には、そういう特定の対象がない場合もあるのです。
「漠然とした不安」と表現されるような。
この時のわたしも、自分がこの先生きていくこと自体に、ただただ不安を感じていました。
けれども当時のわたしは、そういう「怖い」とか「不安だ」いう感情を持つことが、どうしても嫌だったんです。
心身の不調が逃げ道になっていた
今では、そういう自分のなかの恐怖や不安が、身体の不調の根本にあったということがよく分かるようになりました。
けれども、当時のわたしは、自分の内面に目を向けることをしないで、見て見ぬ振りをしていました。
それで身体にいろいろな不調が出ていたんです。
言ってみれば、自分自身の恐怖や不安をちゃんと受け止めて、自分なりに抱えていこうとする代わりに、身体の不調を理由にして、うまいこと逃げていたということ。
自分のなかの「弱さ」を認められない
ただシンプルに「なぜ、就職がそこまで怖いのか?」とか、
「どうしてそんなに不安になるんだろう」と、あえて立ち止まって考えてみること。
自分の感情を自分でちゃんと認めること。
それが必要だったのに、当時のわたしが、なかなか自分の素直な感情を認めることが出来なかったのは、自分のなかに、「弱さ」を認めることをしたくなかったんだと思います。
「就職が怖い」と思うような、わたしはそんなダメ人間じゃないはず。
自分なりに、歯を食いしばりながら、ずっと耐えて頑張れる来た結果が「漠然と不安を感じる」だなんて。
そんな感情が起こってきてしまう自分を自分で認めたくない。
なので、自分のなかに、自然に湧いてくる感情を認めることより、身体の調子を崩していた方が、半分無意識では楽だと思っていたのでしょう。
それに、こんな「頑張れる自分」は、他の人より優れているという優越感を持ちたい気持ちもありましたし、「頑張ってきた自分」に自分で酔っているようなところもありました。
そして、その「頑張れる自分」が当時のわたしの唯一の支えだったということも事実です。
自分のなかの「弱さ」を認めることをしないで、代わりに「頑張って行動する」ことで、自分に対して、自分と良く見せようとカモフラージュしていた面も確かにありました。
不安を「不安」と認める勇気
不安や恐怖といったネガティブな感情を感じること自体、とても辛いことです。
自分のなかの、何だか分からないゴチャゴチャした気持ちに意識を向けることだって、やっぱり怖いことです。
自分の感情と向き合うのは、とても勇気のいることです。
自分のなかの感情と向き合うよりも、心身の不調を抱えていた方がマシ。
そのくらい辛く感じられることです。
なので、不調を抱えている状態は、ある意味、「まだマシ」なことかもしれませんが、やはりカンフル剤のような一時的なものに過ぎないのではないか、と思います。
というのは、どんなにネガティブな感情であっても、自分のなかにどういう感情があるのか、ちゃんと認識しているということが、自分らしく生きるためには、とても大切なことだからです。
自分の感情を認識することは、自分を理解すること。
だから感情を無理に圧し殺すのは、自分らしく生きることからは遠ざかってしまいます。
そのため、いつもどこか、「モヤモヤした感じ」「違和感」「些細なことで落ち込む」状態が続いてしまうのではないでしょうか。
わたし達人間は、分からないことに対して、根本的な不安を感じます。
例えば、未来は分からないから、不安を感じるんです。
それと同じように、自分のことが分からないからこそ、本質的な不安を感じるんです。
自分を知るということ。
なので、不安を解消するために必要なことは、「自分を知る」ということ。
なので、自分の内面と向き合って、自分のなかにどういう感情があるのか、見つめていくこと。
それが、本質的な不安を和らげることにつながります。
そしてまた、感情というものは、真摯に向き合ううちに、徐々に和らいでいくもの。
どんなに強い感情であっても、必ず変化していくものです。
その変化を感じることもまた、今の、ありのままの自分を理解するということ。
それだけではなく、思い切って感情と向き合うと、そこから気付くことがたくさんあります。
その気付きこそが、「自分にとって本当に大切なものが何か?」を教えてくれるものです。
(このことは、このブログ全体を通して度々お伝えしていますが。)
それも、自分を知ることに他なりません。
思い切って「不安」を見つめてみると
わたしは、なかなか自分のなかに、「不安」という感情を抱えていることを、自分で認めることが出来ませんでした。
そのため、薬のように不安な気持ちを解消してくれるような、自分以外の「何か」を長い間探してきました。
自分の感情と向き合うことをしないまま、遠回りしてしまって、かなり時間やエネルギーを無駄にしたような気もしています。
けれども、そういう試行錯誤の過程で、少しずつ、自分のなかの不安というものが分かってきました。
休み休みではありましたが、カウンセリングを度々受け、不安を始めとする自分のなかにあった感情を言語化して見つめ直すこと。
ヨガを通して身体の生の感覚を確かめていくこと。
食事や生活習慣を調整して自分にとって違和感のないものにすること。
どれもこれも即効性はありませんでしたが、毎日毎日少しずつ実践していったところ、わたしのなかに、新たな支えとなるものが形作られていきました。
すると、だんだんと不安であることを自分で自分に許すというか、「不安な気持ちを持ってもいい」と自然と思えるようになれたのです。
そして、不安を認めること自体に、大切な意味があるということも分かってきました。
「なぜ不安なのか」自分なりにゆっくりと見つめてみると、不安な気持ちが少しずつ和らいでいくのを実感することができました。
将来何が起こるのかは分かりませんし、外側の状況そのものがすぐに変化するわけではないので、不安の原因そのものは解消しないままですが。
それでも、以前に比べるとはるかに、不安な気持ちと一緒にいられるようになったし、不安があっても慌てずにいられるようになりました。
「今、ここ」に自分がいるということ
繰り返しになりますが、自分が「不安だ」という感情と持っているということを、ちゃんと認識しているということは、「自分がどういう状態にあるのか」を、ちゃんと知っているということです。
自分で自分のことが分かってくると、得体のしれない不安な気持ちは少しずつ薄らいでいきます。
ヨガでは、呼吸をしている身体の感覚に意識を向けていく練習をするのですが、それと同じように、心のなかの不安にじっと注意を向けていると、その不安な気持ちは増えたり減ったり、変化をしていくのが感じられます。
そういう、変化する生の感情を感じている自分がいる。
それは、今、ここに、「自分がいるという」感覚に間違いないんです。
自分が不安を感じている、今自分が存在しているという現実は、客観的な事実です。
その事実そのものには、疑いの余地はありません。
したがって、不安もないはずです。
わたしはそんなふうに考えられるようになってから、不安な気持ちに惑わされることが少なくなりました。
もちろん、不安な気持ちになることは日常的にあります。
不安に駆られて、衝動的に行動したくなることもあります。
けれども、不安感の最中でも、
「自分が本当に望んでいることは何か?」
「自分のやりたいことは何か?」
「自分がどうありたいのか?」
常に自分に問いかけていくことが出来るようになってきました。
「不安な気持ちになっても大丈夫」
冒頭でも述べましたように、不確定な未来を生きるわたし達は、本質的に不安を抱える存在です。
なので、「不安を抱えること=悪」ではありません。
不安を抱える事自体が悪いことではなく、不安な気持ちに翻弄されて、本来の自分らしさを見失ってしまうことが良くないことなんです。
自分の自然な身体の感覚や、本当に好きなこと、やりたいこと、ありたい自分の姿…
こうした、自分らしくいるための土台が崩れてしまうことが問題なんです。
とはいえ、不安な感情というのは、いつ襲いかかるか分かりませんし、実際に不安に駆られると、なかなか頭では分かっていても、自分をコントロールしづらいことは事実です。
そのため、当たり前なことなんですが、日々、自分の気持ちに向き合い、自分が今どういう状態なのか、自分なりに把握しておくことが大切になってきます。
自分なりの基準を作る
日々、自分の不安な気持ちと向き合っていくと、自ずと、「どの程度不安なのか?」というデータが自分のなかに蓄積されていくはずです。
(簡単なメモ書き程度でもいいので、何らかの記録を付けることをお勧めします。)
例えば、それが1ヶ月とか、3ヶ月とか、一定の期間蓄積された後、改めて見直してみると、どの程度の不安までなら大丈夫なのか、自分なりの基準が出来上がってきます。
それがさらに蓄積されると、ひとつの指標というか、ご自分なりの判断基準というべきものが確立されてきます。
そうなると、不安な気持ちがあっても、以前よりも落ち着いて対応することが出来る自分に気付くはずです。
また、ご自分のなかの不安にもっと真摯に向き合って、自分らしく生きていくうえでの、たくさんの気付きも得られるようになっていきます。
どうか、焦らずに、でも、決して諦めずに、ご自身のなかの不安を、まずは見つめてみてください。
パニック発作について、わたしなりに考えること(余談)
わたしの不調の始まりは、最初にお伝えしたように、パニック発作のような体験でした。
そのタイミングで、自分の身に起こったことに、正面から向き合っていれば良かったのかな、と思う部分もあります。
というのは、あの時、電車のなかで感じた不調が何だったのか、ちゃんと確かめていたら、長い期間不調を抱えることもなかったでしょうし、もう少し早い段階で、もっと自分らしく生きる道へ進むことになったかもしれない、と思えるからです。
一番最初のわたしの症状が、「パニック発作の一種だったのでは?」と、ふっと気付いたのは、それから15年以上経った後、臨床心理士を目指して勉強している間でした。
そしてその時、わたしなりに考えたことは、パニック発作というのは、無意識のうちに「これでよし」と、自分が思い込んでいたことを、一度根底から揺さぶるために、起きているのかもしれない、ということです。
よくよく振り返ってみると、この時のわたしのパニック発作は、自分自身への警告だったんだと思うのです。
「辛いことをちゃんと辛いと認める勇気を持て」ということ。
自分が追い詰められていることを、心では絶対に認めたくなくて。
自分で「負けた」と思いたくない一心で日々耐えていたのですが、実際には身体の方が「ノー」と言っていたんですね。
あの時のわたしは、世間体とか、こうあるべきとか、こうしなくてはならない、そういう思い込みのまま、自分で自分を痛めつけるようにしてしまっていたのです。
そんなふうに、自分が思い込んでいること自体も、自分で自分に隠しておきたくて、何でもない振りをして。
この仕事しかない。
辞めたら、わたしはダメ人間になる。
会社で働けないなんて、人間として終わり。
自分では、それが真っ当な生き方だし、結局これしか生きる道がない、社会人として仕方ないから、無理矢理これでよし、としているばかりだったのです。
そんなわたしに、「そんな生き方でいいのか?」
と、他でもない自分自身の身体が、強烈なメッセージを送ってきたのだろう、と今になって思っています。

でも、その時の自分には、それが精一杯だったのかもしれないな、とも思うのです。
当時のわたしには、今のような、試行錯誤を経たうえでの経験がありませんでした。
まだヨガに出会っていませんでしたし、カウンセリングを受けられる余裕もなかったのですから。
社会的にも、当時は今のように、精神疾患の情報があまり知られていない状況でしたし、わたしにも、そういう知識がありませんでした。
それに、そういう知識があったとしても、心療内科などに受診することは、多分しなかっただろうと思います。
わたしの父は、精神疾患という病気を一切認めない人でした。
「そんなのは甘えだ」と言うか、または「頭がおかしくなった」と思われて切り捨てるでしょうから。
精神疾患なんて、父に認めてもらえない。恥ずかしい。
そういうふうに自分のなかで封じ込めてしまっただろうと思います。
不安感、そして身体の不調は今の自分へのメッセージ
まだまだ全てを受け容れられる段階には達していませんが、長かった不調は、わたしに、自分が自分として生きるために、大切なことを教えてくれました。
今も、その学びの延長線上にいます。
当時のわたしよりも、ずっとずっと自分らしいわたしになった今では、パニックのような症状が出ることもなく、当時の出来事は遠い記憶の一部になりました。
こんなわたしの経験から、ひとつ確実にお伝えできることは、不安という感情や、身体に起こる症状は、あなたに何かのメッセージを送っているということです。
自分が、もっと自分らしく生きるキッカケに気付けるように、誰でもない自分から、自分へのメッセージなんだと思います。
なので、無理に身体の症状を否定したり、感情を抑え込んだりせず、
「なぜ、今こういう症状が出ているのか?」
「なぜ、こんな感情が生まれるのか?」
少し立ち止まって考えてみることをお勧めします。
それが、単に不安な気持ちと付き合っていくだけではなく、身体の不調を癒やし、自分の人生を変えていく機会になるはずです。
あなたはご存知でしょうか?
不安、うつ、トラウマ、過緊張など、こころの症状を、身体を整えながら、身体の側から改善していくことができるということを。
「心の問題には対話によるカウンセリング」というのが一般的な常識ですし、
わたし自身、臨床心理士として、カウンセリングの効果も確かにあると認めています。
けれども、カウンセリングでは、うまく話すことができないと、なかなか先に進めない、ということも事実です。
いくら相手がカウンセラーだったとしても、そんなにすぐに打ち解けて、自分のありのままを話すことなんて難しいですよね。
信頼できるかどうかも分からないし、不安ですよね?
カウンセラーと信頼できる関係を築くまでには、本当に長い時間がかかります。
そのため、カウンセリングで変化を感じる前に、続けられなくなってしまう場合が多いのです。
「カウンセリングがうまくいかない」と困っている方がきっとたくさんいらっしゃるはず。本当はそういう方こそ、心のケアが必要なのに。
そこで、「無理に誰かに話さなくても、心の問題を解決していける方法があればいいな」と、わたしはずっと探していました。
そこで、たどり着いたのが、身体を整え、身体の感覚に向き合うことで、心を整え、心の問題を解決していこうとする方法でのカウンセリングだったのです。
これから自分らしく生きるために、こころ、からだをケアしたい。
でも、カウンセリングでは難しい。
そんなあなたにこそ、かぜのねのカウンセリングをお勧めします。
ぜひ、一度試してみてくださいませんか。